薄いブログ〜20代大家の賃貸日記や、週末の朝活など〜

20代ど素人が始めた賃貸経営の話や、週末に運営している朝活の話など〜

ぼくらは褒められたくて仕方ない

ここ1〜2年のことなのですが

「褒めてもらいたがっている人」に会う機会が増えた気がします。

 

一言で説明するのは、とても難しいのですが・・・

 

実力で褒められるには時間がかかるから

何か近道を探して、結果的によく分からないところで背伸びをしている人

 

というまとめ方になるんでしょうか。

 

 

僕自身、勉強に充てるべき時間を戯言の殴り書きに費やしていたり

その他諸々の行動も鑑みて、

間違いなく褒めてもらいたがっている部類にすっぽり入るんですが

自分のことは一旦、目につかないよう棚の上において書いてます。

 

褒められたくて仕方ない。隠さない犬、隠す人

我が家の犬を見ていると

たまにお行儀よく所定の位置に排尿完了すると

「できたよー!!」と、報告にくるわけです。

 

これが、めちゃくちゃ可愛いんですよ。

さも何事も無かったかのような表情で近づいてくるんですが

得意げに尻尾をブンブン振り回しているもんだから

こちらとしては「あ、これは賞賛に値することをやったな」と一瞬で分かるわけです。

 

で、トイレを目視して「あー!ちゃんと排尿できたねー!!!」って褒めると

もう嬉しさ全開。顔をニカーーーーーッ!!!と広げて

全身で喜びを表現し始めるんですね。

 

もう可愛くて仕方ないんです。

 

一方その頃、人間は。

周りにいませんか。

何かを聞きに行くと「え、そんなことも分からないの?」と

ワンクッション嘲笑を挟まないと回答できないタイプの人が。

 

 

諸々の状況を勘案して意図的にこの回答を選んでいる人は良いのですが

本当は「◎◎さん、すごい!」って褒められたいだけなのに、

それを素直に求められないタイプだと、とても不幸だと思うのです。

嫌味を続けていたら、いつまで経っても褒められないですからね。

 

その昔、政治家や企業役員が通う高級クラブのホステスとお会いした際に

「一流と二流のホステスは何が違うのか?」と伺ったところ

 

「男の人はね、みんな褒められたいの。

 偉い人は、うまく褒めないと怒られたり、飽きられる。

 一流は褒め方のパターンが多いのと、選び方が上手いの」

 

と仰っていて、

なんだか世の中ってすごくシンプルなんだな・・・

大抵の人間は「褒められたい」という欲から逃れられないんだな・・・

と感じたのを覚えています。

 

 

嫌われない勇気と、配慮の欠如

だからこそ「褒められるとか関係なく、思ったことをズバズバ言う人はカッコイイ」

って風潮があるのかもしれませんね。

 

「自分の思考をさらけ出した結果、誰からも褒められない」ってすごく怖いですもん。

俺たちにはできないことを平然とやってのける

そこに痺れる、憧れるゥ感覚と似てるんじゃあないか?

 

でも、そうなると時々出現するのが

単に他人に対する配慮が欠如しているだけなのに、それを

「思ったことをズバズバ言う」と勘違いしている方ですよね。

 

 

 

これもまた、本当は褒められたいだけなのに

「別にそんなものは求めていない、自分は褒められることから自由」を演出したい、

そんな齟齬がチラチラ見えるから、違和感を覚えるのかもしれません。

 

褒められることを素直に求めてもいいのではないか

ごくごく一部、そういう賞賛乞食的な活動から逃れて

粛々と自分が好きなことに没頭するタイプの人がいますが

 

基本的に世の中の9割9分は

今か・・・今か・・・と褒められるのを虎視眈々と待ち望んでいる気がします。

 

ちなみに僕は

巨大なコンプレックスの塊を脱水濃縮して更に高圧で固めたような人間なので

まぁ褒められることに対して凄まじく貪欲です。

 

むしろ褒められたいがために生きていると言っても過言ではありません。

「すごいね!」という賞賛を食べて

「面白いね!」という反応を飲んで生きています。

 

なので、よく周りから「欲しがるね〜」と言われますが

まぁ隠して欲しがるより、全力で欲しがった方が

少なくとも正直でいいのでは?と思いますし

 

変にひねくれて高圧的になったり

他人に酷い事をする人間にならなくて済むのだったら

全員が素直に欲しがる世の中になればいいんじゃないかな、とも思います。

 

 

そういえば昔、イタリア人の友人宅に2週間ほど滞在したんですが

まぁ本当に街行く女性ほぼ全員に

「綺麗だね!」とか「その服、素敵だね!」とか、声をかけるんですね。

 

 

あまりに無差別に声をかけるもんですから

「お前、もう少し節度を持って女性に声をかけた方がいいぞ。失礼じゃないか」

と注意したら、こんな風に返されました。

 

「どうして?みんな褒められて喜んでたじゃないか」

 

 

あぁ、なるほどなー・・・・

 

ナンパとか、そういう目的を持って声をかけているわけじゃなくて

ただ単に「褒めたら相手が喜ぶ。相手が喜ぶことは、明らかに良いことじゃないか」

ってシンプルな理由なのかなー、と感動したのを覚えています。

 

そのあともイタリア人は女性に声をかけた続けたわけですが

たまたま声をかけた相手が妹の友人だったらしく、

「妹には言わないでくれ」と、えらく狼狽してました。

こりゃイタリア人、幸せそうな人が多いワケですわ。

 

 

隣の芝生は青く見えるとか、色々あるとは思うんですが

もう少しみんなが褒められる事に対して素直になって

行きがけの駄賃みたいに褒められる世の中になると良いですね。

 

 

 

日本人と怒りの付き合い方

こんにちは。

 

最近、怒りっぽい人が多いように思います。

気のせいかもしれませんが。

 

老若男女問わず、周りの人を押しのけながら満員電車に乗り込む人。

自分とは何ら関係のない芸能人の不倫報道に、これ幸いと義憤を隠れミノにウサ晴らしをする人。

他人の揚げ足をとることに命をかけて、言葉の不謹慎狩りを繰り返す人。

 

怒りっぽい人に囲まれた生活は、とても息苦しいと思うのです。

 

そして、何だかこの怒りっぽさは

日本人特有の性質なのかな?と最近感じはじめています。

 

よく文句を言うイギリス人、ドイツ人

その昔、イギリスとドイツに住んでいた頃。

まぁ彼らの感情の激しさ、不満の量に面食らいました。

 

日本ではあまり見かけない光景だと思うんですが

たとえば給湯器が壊れてお湯が出なくなろうものなら

シャワーから裸一貫で飛び出して来て

 

「マァァァァザファッカアアア!!この水道を作ったやつの腸をえぐり出して、

 子孫もろとも平行世界からもぶち◯してやる!!!ガアッッッデム!!!」

 

くらいの勢いでブチ切れてキッチンを5周しつつ全員に怒りを共有してから去ったり。

 

 

例えば自販機にお金を入れて、ボタンを押しても商品が出てこないと、これまた

 

「シイイイイッッット!!!!この自販機作ったやつぁゴキブリと人間のハーフにちがいねぇ!縛り付けて、目の前で先祖もろともアースジェットしてやりてぇ!!!ビッチ!!!!」

 

くらいの勢いで吐き捨てたりします。

 

とにかく「我慢」というものを知らない生物なのです。

 

なので、しょっちゅう喧嘩が勃発するのですが

なぜか全く尾を引かない綺麗な終わり方をするのが

彼らの不思議な特性なのです。

 

たとえば僕が以前ドイツで働いていた頃、

仕事上の意見対立から、ものすごい剣幕で先輩二人が怒鳴りあっていたものですから

「あー、職場の空気が悪くなっちゃうなぁ・・・」と心配したのですが

翌朝には二人揃ってコーヒーを飲みながら談笑している。

 

「昨日はあんなに怒鳴りあっていたのに、すごいなぁ・・・」と関心したものです。

 

確かに、よくよく彼らの言い争いを振り返ってみると

 

「お前の意見は、これこれ、こういう理由で、間違っている」

「違う、これこれ、こういう理由で、正しい」

 

など、議論が「発言内容」「その根拠」などに徹底しており

一度も個人に対する人格攻撃や、「もうたくさんだ!」といった

投げやりな感情発露はなかったように思うのです。

 

そしてふと、僕の母校(米国式のインターナショナルスクール)が用意していた、

ある授業のことを思い出しました。

 

(Anger Management)アンガーマネジメント

僕の学校には(確か)anger managementという授業がありました。

直訳で「怒りの制御」でしょうか。

 

しょっちゅう喧嘩をしてしまう問題児が強制的に受けさせられる

さながら更生授業のようなカリキュラムでした。

 

そしてその内容は授業というより、

様々な質問を通じた状況分析の時間でした。

 

「相手は、具体的に、あなたに何をしたのか」

「具体的に、どの発言が気に障ったのか」

「それはなぜなのか」

「相手は、どんな意図で、あなたにそんなことを言ったと思うか」

「なぜ、相手はそんなことを言ってしまったのか」

「想像で構わないから、相手が怒った理由と、その背景を可能な限り挙げてみよ」

 

やっている事は非常に単純で

 

「相手の立場を考えよう」

 

これだけなんですね。

 

喧嘩をした当事者が双方、このような分析を実施してから

 

「僕がこんな事を言った時、君はこういう理由から、こう感じたと思う」

「それに対しては申し訳ないと思っている」

「でも僕は、君があんな事を言ったとき、こう感じた」

「それに対しては謝罪をしてほしいと思っている」

 

と、お互いに、相手の気持ちを想像した結果を伝える。

 

これを繰り返すことで和解を促す時間でした。

 

当時の僕は小っ恥ずかしさを感じていたのですが

幼少期から「感情の授業」を受けることは

相手を尊重しつつ問題を解決する心構えを学ぶ、

とても有意義な時間だったと思います。

 

なぜ日本人は話し合わないのだろうか

僕が日本で生活していて一番強い違和感を覚えるのは

「話し合い」に対する異様なまでの拒否感です。

 

直接注意してくれない

例えば僕が社会人1年目の頃。

当然、今まで英語で生活してきたわけですから

敬語がまったく使えません。

 

とはいえ、特に周囲に注意されることもなかったので

拙いなりに、ちゃんと敬語は使えてるのかな?思っていたら

ある日、先輩社員がこんな事を教えてくれました。

 

「ベテラン社員のAさんが、お前の口調が気に入らないって言ってたよ」

 

その話を聞いて直ぐAさんの席に向かい

「僕の口調が失礼だったようですね。ごめんなさい」と謝罪したところ

「おお・・・いや、むしろ陰口みたいになってすまんね」と

許していただけました。

 

でも、もし先輩がAさんの不審を教えてくれなければ

僕は生涯Aさんに嫌われ続けていたことになります。

 

そして「嫌い」という気持ちは必ず伝播しますから

僕もいずれはAさんを嫌っていたかもしれません。

 

なぜAさんは僕に伝えてくれなかったんだろう。

とにかく不思議でなりませんでした。

 

「解決」より「謝罪」

また別の日に、別の先輩から飲み会の席で

「お前は、生意気なんだよ」

と、直接注意されたことがありました。

 

そこで「どういうところが生意気なんですか?」と聞き返したところ

「そういうところが生意気なんだ!」と、さらに怒られました。

 

何度「具体的な状況を教えてください」と聞いても

「そういうところだ!」としか返されないので

 

さすがに、それに対しては僕も納得できなかったので

 

「僕としては「生意気だ」と言われたので

 原因を知って直して、あなたと仲直りしたかったです。

 

 でも、あなたにとっては問題を解消して良好な人間関係を築くことより

 形だけの謝罪を得るほうが大事なんですね。

 では、形だけ謝ります。ごめんなさい」

 

と言ったら、めちゃくちゃにブチ切れられました。

 

 

 

今にして思えば当然なのですが(それを当然と思う程度には日本の文化に慣れてきた)

 

 

これも、当時とても不思議でした。

 

同じフロアにムカつく相手が座っているより

対話して解決した方が絶対に良いのに

なぜこの人は解決を選ばないのだろう・・・と。

 

 

溜め込んだ怒りの肥溜め

当然、解決しないまま溜め込んだ怒りは、いずれ爆発します。

 

昔は「我慢」「沈黙」が美徳であり、

それを適切に処理できるだけの技量が日本人に備わっていたのかもしれません。

 

でも正直、完璧に「我慢」できている人を、僕は見たことがありません。

 

1ヶ月、1年先かもしれませんが、いつかブチ切れた時に

「そういえばお前は半年前、こんなことをしたな!」とか

凄まじく過去に遡ってなじられることが多いです。

 

それは問題が発生した時に言ってくれよ、と思ってしまうのです。

 

「お前の先祖が鎌倉時代に俺の家に火をつけたな!その恨み!」

 

とか言われてる気分です。

そんなもん僕の先祖に直接言ってほしいですよね。

 

こうして「その時々で言わずに溜め込まれた怒り」が

満員電車や下世話な不倫報道、SNSなどの肥溜めに

噴流しているように感じるのです。

 

日本では、もう少し「対話」に高い価値がつけられても良いのではないでしょうか。

 せっかく人間は高度な言語能力、情報共有能力を有しているので

これを使わない手はないと思うのです。

 

就活相談に乗って思ったこと:車輪を再発明する必要はあるのか

最近、就活中の方々とお話ししていると

 

「私は、こう思います」

 

と、しっかり自分で考えている方にお会いすることがあります。

もう、素晴らしいです。

イメージに踊らされてふわふわ〜と就職先を決めた

僕のようなコーヒーの搾りカスとは天と地の差です。

 

でも、あえて自分でゼロから考えている方が多いのが気になります。

 

自分で考えるのも、もちろん大切なのですが

これ、ものすごく効率の悪い作業なので

「こんな抜け道もあるよ?」という話ができればと思います。

 

 

車輪を再発明する必要はあるのか

「車輪を再発明する」という言葉をよく耳にしますよね。

 

人類に大きな飛躍をもたらした「車輪」

とてつもなく重大な発明なのですが

これを現代で、自ら改めて考えることに価値があるとは思えません。

 

すでに誰かが辿った思考、軌跡の上に

自分の新たな思考や工夫、なにかを築き上げるからこそ

「車輪」に動力を積載してバイクが生まれたり、

「車輪」に磁石をつけて発電機が生まれる。

 

全員が「車輪を発明するぞー!」と同じことを繰り返していたら

あまりにも進化の効率が悪いので

僕らは未だウッホウッホとマンモスを運ぶ作業に追われているはずです。

 

なので僕は

「すでにある知識をとことん吸収して、その上に自分の考えを載せる」

ことに高い価値がある、と信じる派です。

 

で、「すでにある知識をとことん吸収する」効率的な方法が、読書です。

 

 

読書は近道

例えば

 

「やはり企業の選考には学歴が影響するのでしょうか」

 

と聞かれることもあるのですが

これはもう、就活関係の書籍をいくつか読めばすぐに答えが出ます。

海老原嗣生氏の「就職に強い大学・学部」あたりがオススメです。

アマゾンなら1円で買えるし、図書館でも借りられます。

 

調査データなど「事実」の割合が高いため

思考の土台となる基礎知識を固められます。

 

例えば人気企業100社の新卒採用枠は約「2万人」

 

対して旧帝大の卒業者だけで「2.1万人」

MARCHレベルまで含めた卒業者の数は「10万人」

 

いわゆる高学歴が採用枠の5倍いるんですから

そりゃ人気100社の選考を受けるのは難しいよね・・・

という事が、数字を見るだけでなんとなくわかります。

 

また、大学ごとの就職率もしっかりと抑えています。

電車広告で謳われる「就職率98%」は

あくまで「就職決定者/就職希望者」なので

より正確な「就職決定者/卒業者」で計算すると

就職率が60%台に低下する大学が大半です。

 

上記の「ちゃんとした就職率」を大学ごと比較すると明確に就職率に差が出るし

それを「人気企業」に絞れば、さらに差が広がるのが分かります。

 

なので「就活に学歴は影響するか」という問いは

本を1冊読めば解決します。YESです。

業界研究に関しても様々な本が出版されています。

現場で働く方の自伝も数多く出版されています。

 

読者は最高の「近道」です。

誰かがあなたの代わりに時間をかけて調べ、まとめ、書き、

内容の裏付けをして、推敲して、

出版社の名誉をかけて世に送りされた「作品」です。

 

せっかく誰かが発明してくれた車輪なんですから、

もう存分に利用していきましょう。

 

もちろん、本を鵜呑みにするのは禁物ですけどね!

 

今日たまたま図書館で読んだ本には

「とにかく川上産業の安定した大企業を狙え。シャープがオススメだ」

と書かれていました。

 

作者が鮮やかにヨミを外すこともありうるので

「意見」は「そんな考え方もあるのか」程度に抑え、

「事実」だけを集めにいきましょう。

 

あなたの悩みは、どこかで誰かが解決している

パスカルが残した「パンセ」という本があります。

「人間は考える葦である」もパンセの一文です。

 

僕は未だにこの一文の意味が全くわからないのですが

 

「17世紀の人間と21世紀の人間は、ほとんど同じことを考え、悩んでいる」

 

という気づきを得られるのでオススメです。

 

「なんで心にもないことを言ってしまったのだろう」

「どうすれば未来への不安を取り除けるのだろう」

 

こんなテーマを高尚な思考と言葉でまとめたのが「パンセ」です。

 

で、何を伝えたいのかというと

 

「人間は少なくとも400年前から同じようなことで悩んでるから、気にすんな」

 

という諦観とも達観とも言える割り切りと

 

「どうしても辛ければ、すでに同じ道を歩んで、解決した人の本を読もう」

 

という提案です。

 

400年も前から同じことで悩んでいるということは

特効薬的な解決策はありません。

 

「悩む」は「思考」とほぼセットなので

完全に取り除くことは、そもそも不可能なのだと思います。

 

ただ自分の「悩み」の正体を明らめたい場合は

その悩みを分析して解説している書がいくらでもあるので

それらの土台を借りるのも、有用だと思いますよ。