薄いブログ〜20代大家の賃貸日記や、週末の朝活など〜

20代ど素人が始めた賃貸経営の話や、週末に運営している朝活の話など〜

長時間労働を減らしたければ、更生したヤンキーを褒めるのを止めよう

 

コツコツ努力する優等生より

更生して一夜漬けしたヤンキーの方が

評価されるじゃないですか。

 

僕は評価されないコツコツ派だったので、

ハムスターに水をやれば

ノーベル級に褒めちぎられるヤンキーが羨ましくて

ぶっこrちょっと血が出ちゃえばいいのにな♪

と思ってました

 

で、そんなヤンキーがフィクションで

評価されるのは100万歩譲るとして

実生活、たとえば会社でもヤンキー更生系人材が

すごく高く評価されるのは、なんか違うと思うし

それが長時間労働を生んでると思うんです。

 

観衆は逆転ホームランと、暗い面を見たがる

 

僕の会社では、

社内MVPを決めるプレゼン大会が活発です。

 

以前そこに登壇した際、

プレゼンを添削してくださった先輩と

こんなやりとりがありました:

 

わい

「というわけで、

淡々と日頃の業務を小さく工夫して改善を続けたら

売上が1.6倍になりました。

効率よく働けたと思います」

 

先輩

「うーん・・

なんか苦しかったエピソードとか、

ないの?」

 

わい

「いや、特に・・・

必要に応じて事前に周りに声をかけて、

助けてもらっていたので・・・」

 

先輩

「チーム内で軋轢があった、とか?」

 

わい

「素晴らしいチームに恵まれたので、

楽しかった記憶しかないです」

 

先輩

「うーん・・・

なにか苦しかった思い出が欲しいところだよなぁ」

 

 

やはり観衆は

 

「いじめられっ子だった僕は、

 マイク・タイソンになりました!(元々強かったけど)」

 

「落ちこぼれだった僕は、

 火影になりました!(天才家系だけど)」

 

みたいな、

嘘でもいいから逆転ホームランが見たいのであって

こつこつバントとフォアボールを選んで勝つところは

見たくないんですよね。

 

別の機会に

社内ビジネスコンペ的な場でプレゼンした際も、

審査員評に

 

「もう少し苦労した話が聞けると観衆も安心する。

 人は暗い面を見たがる生き物なので・・・」

 

と人のドロドロしたところを

綺麗にまとめたコメントもありました。

 

でも、そういうドラマ要素を

仕事の表彰だったり

人事評価にも混ぜ始めるのは、

混ぜるなキケン!だと思うし

練れば練るほど色が変わって

最悪の場合死に至ると思うんですよ。

 

ビリギャルは「合格」ではなく「その後」を評価されている

例えば最近のヤンキー更生系の筆頭、

ビリギャルを例に考えると

 

これが慶應合格ラインだとして

 

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普通の優等生の努力プロセスが、こんな感じだとして

 

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ビリギャルはこんな感じじゃないですか。

 

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登り方が違うだけで、到達したポイントは同じですよね。

 

「到達したポイントが同じなんだから、

評価は同じであるべきでは?」

 

とも思うのですが、

この成長率が今後も継続すると

仮定して少し先を見据えると・・・

 

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未来の到達点に圧倒的な差が生まれる。

 

だから、ヤンキー更生系人材は

 

「更生したね!到達したね!」

という地点を評価されているのではなく、

 

5年、10年先に到達するであろうポイントを見据えて

評価しているのかもしれません。

 

確かに成長率が高いところに期待するのは

一理あります。

 

でも「到達点」ではなく、

現時点の「面積」を評価すると・・・

 

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圧倒的に優等生の方が勝ってます。

スプラトゥーンの試合だったら、

これだけでゲーム断つレベルの負けっぷりです。

 

その圧倒的な面積が評価の対象外に置かれているのは、

ちょっと違和感があるんです。

 

 

異常成長は犠牲なくして成し得ない

だって、このヤンキーが異常成長を遂げるためには

いろんなものを犠牲にする必要があるわけじゃないですか。

 

ビリギャルだったら友人と過ごす時間とか、化粧の時間とか。

 

それって短期間にすべてを凝縮して

 

「もう・・・これで終わってもいい・・・」

 

ってジャン!ケン!グー!

してるからこそ実現可能なのであって

生涯持続することは難しいと思うんです。

 

それを賞賛する風潮が根付いてしまうと

何かを犠牲にしないと成し得たとは認められない、

非常に歪で不健康な評価になってしまいません?

 

僕がビジネスコンペで

「すべて順調でした」と成果を発表しても

どこか残尿感が残ってしまうように。

 

「こいつ、何も犠牲にしてないじゃん」

「こいつはWAGASHAのために何を犠牲にしてくれるのかな?」

 

ってな具合に、

犠牲を当たり前のように要求する状況

って異常ですよね。

 

イタチは犠牲になったのだ・・・

犠牲の犠牲にな・・・って、

それをみんなに求めちゃダメです。

 

犠牲を求めるのはやめよう

だから僕は「異常成長の成長率」と、

それを支えるためにどれだけの犠牲を払ったか、

を評価する風潮は本当にやめた方がいいと思うんです。

長時間労働の温床です。

 

仕事の「成果」って

ものすごくフェアに評価しづらいので

「労働時間」という評価しやすい尺度で見た方が

圧倒的に楽なのはわかります。

僕だって毎日筋トレをするより

倒れるだけで腹筋バキバキワンダーコアの方が嬉しいです。

 

でも、そうやって楽な方を選び続けた結果が

今の「とりあえず頑張った奴が偉い」風潮に

つながっているんじゃないかなーと

偉そうな若造は汗ばんで指と荒い息を撒き散らしながら思いますよ。

 

さいごに 〜海外マウンティング編〜

その昔ドイツで働いていた頃

(ネット好きのみんな見てるー?

 大好きなマウンティングだよー)

 

「新人だし、頑張って働かなきゃ!」

 

と張り切ってオフィスに残っていたら、

先輩がトコトコ歩いてきて

 

「早く帰るんだな、おまえにも家族が居るだろう」

 

とかガイルみたいな一言を残して

帰ったのを思い出します。

 

家族いなんですけどね。

傷口にブート・ジョロキア練りこまれた気分です。

 

でも、そうやって無理なく働き続けた方が

成長痛で立ち止まることもなく、

定期的に成果を出し続けられますよね。

 

なので更生したヤンキーが

たかが1年すごく頑張ったら褒めるんじゃなくて、

10年くらいコツコツ努力したら褒めてやるよ、

くらいの勢いで接しない限り

長時間労働はなくならないんじゃないかなー

と思いましたとさ。めでたしガッデム。

優秀さの定義を考える時間があったら筋トレでバキバキボディを手に入れた方がいい

 

Facebookを眺めていたら、会社の同期が

 

「優秀さの定義ってなんだろう・・・」

 

と子羊のような投稿をしていました。

 

そこで、ふと思ったのですが

 

そもそも優秀さって、

考えるべきタイミング、考えるべきではないタイミングがあると思うんです。

 

 

 

他人の優秀さについて考えるべきタイミング

 

基本的に、リーダーや管理職など、

他人を評価するやんごとない必要性が生じた場合を除いて、

他人の優秀さを積極的に考えるべきではないと考えています。

 

 

 

そもそも主観が入るから

 

他人の評価には必ず主観が入るので

厳密に定義して、誰もが納得する定義を用意する事は不可能、

もしくは非効率だからです。

 

「あいつはデキる」

「あいつはデキない」

 

それ、なんの基準で判断してるんですか?

どんなチェック項目に照らし合わせて判断したんですか?

全くわからない。

 

前の日にアメちゃんをくれたから好意を抱いて

「あいつはデキる(アメちゃんくれたから)」と懐いているだけかもしれません。

 

前の日にコーヒーグラインダーもビックリの勢いでゴマを擦ってきた相手だから

「あいつはデキる」とさらなるゴマを求めているだけかもしれません。

 

主観が混じった時点で、正確な評価にはなりません。

給与計算に必要とか、よほどの理由がない限り、考える労力に見合わないので

その時間をスクワットに充てて強靭な下半身を手に入れましょう。

 

 

おこがましいから

 

自分が「スゲー!」と思う人の「優秀」と感じた要素を分解して

細かく学んでいくプロセスには意味があると思います。

 

たとえば漠然と誰かを「優秀だな~」と思うだけだと

 

○○さんは、すごく優秀だと思います!

 僕も将来は、○○さんみたいになりたいです!」

 

こんなの、わんぱく少年団のつよし君(7)が

プロ野球選手に抱く憧れと同じレベルです。

すごく微笑ましいです。いい選手になれるといいね!

 

しかし、このつよし君(7)が

 

○○さんはフルスイング中もしっかり頭が残っているため、視線がブレにくいことが

 変化球に対応できる強さだと感じました。それを実現する下半身の強さを身につけ

 ○○さんみたいになりたいです!」

 

と考え始めたら

具体的な学びが始まっているので、より大きな意味を持つと思います。

また、それを基に「この人と働きたい!」とか考えて

仕事を少しずつシフトしていくのは有益だと思います。

 

だから「すぐ取り組める要素まで分解する」という意味では

確かに優秀さの定義を考える意味はあると思うのですが

 

それ以外の評価は、普通におこがましいです。

すごい人を普通に高評価して同じ土俵に立ってる感に浸るのも、

できない人を論って優越感に浸るのも、

どちらも人間の中の汚いアレをダダ漏れしてるだけです。

 

誰かを評価する暇があったら自分が努力した方がいいです。

 

○○は優秀、○○はそうでもない」とか言いたいだけなら

どこぞの防音設備に入って1日中ペッパー相手に「○○は優秀だ」とか評価してて欲しいです

 

ペッパーなら優しいので

「そうですね。あなたも優秀ですよ」って最初のうちは返してくれると思います。

 

3時間くらい経ったら、

さすがのペッパーも「そろそろ黙れよ」って言うかもしれません。

 

 

「みんな優秀」と思ってた方が圧倒的に人生豊か

 

そもそも優秀「じゃない」と評価する事に、意味がありません。

 

だって、露骨に薄っぺらい褒め方をしない限り

大概は高評価した方が相手から好感が得られるので

よほどの事がない限りはひたすら「あいつはデキる」と

出会った地球人全員に思っていた方が人生は豊かなわけです。

 

なかには低評価したほうが奮い立つ、それが許される信頼関係もあるかと思いますが

基本的には一寸の虫にもフルスタックの魂、を意識して損はないと思うんです。

 

それに、「評価」って驚くほど人の口を通じて広がります。

 

○○が△△のことをダイオウグソクムシにも劣る知性って言ってた」とか

「△△が○○のことをクラミジアって呼んでた」とか

 

シェンロンみたいな、たいそう立派な尾ひれがついて話がぶわーっと広がっていきます。

 

本人の耳に届いたら、確実に嫌われますよね。

だったらそんな事、考えない方がいいです。

 

炎上マーケティングで稼ぎたいなら話は別ですけど。

口頭コミュニケーションには広告が貼れないから一円の得にもなりません。

 

 

 

 

自分の優秀さについて考えるべきタイミング

 

 

ありません。

 

自分の優秀さなんて、考える意味がありません。

 

人が他者に頼って生きる生き物である以上、他者評価の方が強いわけですから。

 

自己評価と他者評価にズレが見つかった時

自己評価が優先される事なんて、アラブの石油王でもなけりゃ、ありえません。

 

だったら考える意味がありません。

それより勉強して成果を出した方がいいです。

 

 

そもそも自分に対して甘い人間だったら、自分を優秀だと思いがちだし

自分に対して厳しい人間だったら、自分をボケナスだと思いがちだし

これも主観が混じるわけですから、そんなモノに一喜一憂しても意味がありません。

 

 

昔はよく「会社の評価面談の時にズレが起きないよう、優秀さの定義を考えておかねば」とか考えましたけど

結局、自分を自分で評価する必要は無いんですよね。

 

まずは、「自分はこういう基準で評価して欲しいです」という定義を相手と合意します。

この定義がズレると悲惨です。

システムエンジニアとして毎日がんばって働いてたのに

「君はフォアハンドが下手だから評価1だね」とかいきなり言われたら困ります。

 

その定義に沿った事実を、判断材料として提供します。

 

自分は今回、こんなプロジェクトやりました。

結果、これだけの売上が生まれました。

 

ここまでやったら、あとは相手の評価に任せるしかないじゃないですか。

自分で評価したって最後は他者評価がそれを勘案して上塗りされるわけだから。

 

「自分は優秀なんだろうか・・」とか考える時間を筋トレに充てて

腹筋バキバキにしてた方がマシですよね。

 

 

 

 

結局、すべての人間は幸せに過ごすために生きていると思っているので

「自分は優秀だ!」と思うことで幸せに近づくなら思っておけばいいし

「自分はポンコツだ・・・」と思うことで幸せになるなら、それでいいと思うんです。

 

でも、考えるだけで滅入ったりするようなら、考えない方がいいです。意味がないから。

 

そして他人の評価はペッパーにでも呟いてた方がいいと思います。

・主観が入るから意味がないし

・おこがましいし

・みんな優秀、って思ってた方が人生豊かです。

 

謝罪の価値

日本に帰国して驚いたことの一つに

「謝罪の価値」があります

 

異常なまでに謝罪の価値が高い日本

日本って、めちゃくちゃ謝罪の価値が高いと思うんです。

つまり「謝ることが大事」と思っている人が凄まじく多い。

 

例えば自社製品が不具合を起こした時、

真っ先に何をするかと言えば、顧客への謝罪行脚です。

 

すごく不思議だと思うんですよね。

 

だって一番の謝罪は、2度と不具合が起きないよう商品を改善する事だと思うんです。

 

そのために全力を注いでいるのであれば

謝罪行脚のために割ける時間が、どうして生まれるんでしょ。

 

(損失の補填も最高の謝罪だとは思うんですが

 個人的に、それは作り手側に責任を求めすぎな気がするので候補から外してます)

 

謝罪を受けて納得する顧客側の心理も不思議です。

「再発防止のため、商品改善に全力を注ぎます!」と謝罪を受けているその瞬間も、

謝罪行脚に力を割いてる時点で「全力」じゃないんですよね。

 

不具合を営業に伝達する過程で、商品改善に充てられる工数は絶対に削られてるので。

 

 

全力を出していない相手の言うことに、どうして納得できるんだろう・・・

合理性とか計算とか、そんなチャチなもんじゃあない。

 

謝罪会見にかかる時間、他のことに充てたら・・・?

同様に「謝罪会見」もすごく不思議な習慣だと思いました。

あれも、謝罪の準備に凄まじく時間がかかると思うんですよ。

会場手配したり、記者を招いたり、台本を作ったり。

 

だったらその工数を、謝罪の源を正す時間に充てたらいいのに。

 

こんな感じに「まずはキチンと謝罪すること」が

問題解決より重点を置かれているので、

いざ謝罪を受ける側にたった時

 

「この人、この謝罪準備にどれくらい時間をかけたんだろう・・・

 どうしてそれを問題解決に充てないんだろう・・・」

 

と不思議に思ったのが、記憶に新しいです。

 

2度と起こさない事の方が大事では

そのほかにも、日本の謝罪に関する不思議なケースは多々あります。

 

例えば大家をやっていると、家賃を滞納される入居者に巡り会うことがあります。

そんな入居者に電話をかけた、ある日のこと。

 

家家「ちょっと、何ヶ月も家賃が滞納してますね」

 

入居者「はい・・・本当に申し訳ございません」

 

大家「いえいえ、謝罪は不要です。ミスはつきものですから」

 

入居者「すみません・・・」

 

大家「じゃあ、どうしましょう?」

 

入居者「え?」

 

大家「今後、何をしたらいいと思いますか?」

 

入居者「・・・えっと・・・・」

 

大家「・・・銀行で自動振替を設定しましょうか」

 

入居者「あ、はい」

 

 

という具合に、何も考えていなかったんです。

 

僕はこれが凄く不思議でした。

 

家賃を滞納して申し訳ない、という気持ちは持ちつつも

どうしたら滞納を防げるか、考えていない。

本当に「謝れば済む」という思考の極地に達してるんですよね。

 

いかに日本で「謝罪」に高値がつけられているか、思い知らされた瞬間でした。

 

謝罪の影でテヘペロ

というわけで謝罪を受ける側に立ったら

間髪入れずに「じゃ、この後どうします?」と聞くようにしてます。

 

本当に申し訳ないと思っている人なら

「次はこれこれこうして、再発させません」と即答すると思いますし

「えーと・・・」と考え込む人だったら

「とりあえず謝っておくか」と考えて、

頭の片隅でテヘペロしてる可能性が高いです。

 

謝罪の受け手から変わる事が謝罪習慣を変えると思うので

この辺は気をつけて今後も過ごしたいな、と思った日曜の朝でした。